三人でいた時も四人でいた時も、食事を作るのは専らクロウだった。別に料理が上手い訳でも、好きな訳でもない。他の三人が料理をしないだけだ。
遊星は、クロウが不在かつ自分以外の人間が腹を減らしている場合にのみ、料理をする(味は可もなく不可もない)。しかし自分の食事はビスケット一枚だけで済まそうとする。欲が無いというよりは、食に対する拘りが欠けているのだ。
そしてジャックは論外だ。彼を台所に立たせる事、それ即ち、食材への冒涜に値する。
判り易い例を挙げよう。三年ほど前の話だ。クロウが帰宅すると、鬼柳の悲鳴が聞こえた。急いで駆けつけると、汚れたエプロンをつけたジャックが力づくで鬼柳を押さえ込み、その口にピンポン玉大の炭の塊を押し込んでいる光景に出くわす。奥の台所では遊星が、なにやら悟りきった笑みを浮かべつつ、壊れたコンロの修理をしていた。一瞬ですべてを理解したクロウは、食材が残っているかどうか確かめるべく台所へ向かった。背後で断末魔とも呼ぶべき声が聞こえたが、極めて冷静に無視した。下手に取り合うと、被害が拡散しかねないからだ。そして後日、鬼柳は泣きながらこう語る。「おかしいよな。俺はじゃがバターが食べたかっただけなのに」と。
ちなみに鬼柳は缶詰を温めることくらいはできる。しかしそれ以上のことはできない。
そんな訳で、今日も今日とてクロウは一人で台所に立っている。そして慣れた手付きで野菜を適当な大きさに切り、大きな鍋にぶち込んでいる。すると鍋の中の水が盛大に跳ね、コンロに落ちる。だが彼は気にせず火をかけた。次は冷蔵庫から豚バラ肉を取り出して、またしても適当な大きさに切る。一連の動作をするクロウの表情は柔らかく、鼻歌まで歌っている。
何かいい事があったのだろうか、と、遊星は手を止めて、橙色の後頭を見た。ダイニングのテーブルに座っている遊星には、彼の表情は見えない。だが鼻歌は聞こえる。どこかで聞いた事のある歌だ。それどころかひどく懐かしい気がして、遊星は耳を澄ます。すると、ふ、と微かな笑い声が聞こえた。ジャックだ。
遊星が正面に向き直ると、ジャックは視線をクロウに固定したまま「直せないのか」と言った。一瞬呆気に取られた遊星だが、彼は瞬きひとつする合間に、質問の意図を理解した。そして手元に目を落とす。
そこにはバラバラに分解された目覚まし時計があった。クロウに修理を頼まれた物だ。直せないものではない。少々接触が悪かっただけだ。簡単に直る。ただ手持ち無沙汰になった遊星が、無駄に分解して、あれこれ弄っているだけだ。彼はぶっきらぼうに「すぐに直る」と告げ、作業を再開した。
するとどうだろう、ジャックは抑えた声で遊星の名を呼んだのだ(今の今まで取り合わなかったくせに)。しかし呼ばれた遊星は手を止めず、ぶっきらぼうに「なんだ」と返す(先程の意趣返しと言うには弱い)。ジャックは笑みを深めて、ようやく本題に入る。
「あの歌、聞き覚えがないか?」
遊星の手が、またもや止まる。そして藍色の目を三回も瞬いてから、そろりと視線を上げた。ジャックは相変わらずクロウの後姿を眺めている。当のクロウは冷蔵庫を開け、昨日作ったマッシュポテト(と呼ぶには粒が粗いそれ)を取り出し、そのまま食べるかマヨネーズでも和えるか考えていた。もちろん鼻歌は続行中だ。
紫の瞳が眩しそうに細められる。ジャックは時々、複雑な感情をない交ぜにした表情を見せるようになった。二年前には見せなかった表情だ。複雑すぎて、遊星には量りかねる。
低い声が「あの歌、」と一言零した。紫の瞳が、くるりと翻って遊星を見た。遊星は黙って言葉の先を待つ。ジャックはいたずらっぽく笑って、こう続けた。
「マーサがよく歌っていただろう」
瞠目した遊星の脳内に、幼い日の思い出が甦る。
いつの事だったかは判然としない。だがいつもの、何の変哲も無い夕暮れ時の事だ。
マーサに「夕飯までには帰ってきなさい」ときつく言われた事を思い出し、橙色に染まる街を、クロウと一緒に走っていた(クロウの髪は橙色に溶けそうだが、決して溶けない)。クロウは元々足が速い上に、帰り道は全速力で走る。しかも彼は面倒見がいいので、遅れがちな遊星の手をしっかりと掴んで牽引してくれる。
遊星は自分の足が勝手に動くのを面白く思いながらも、もう片方の手で宝物をしっかりと抱えて放さない。宝物は拾い物だ。大抵はまだ使えそうな玩具だったり、カードだったりするのだが、その日の宝物は古びた絵本だった。幼い彼はきれいな絵と英語のような文字を見て、きっとジャックが喜ぶ、と判断したのだった。
息を切らしてハウスの門をくぐると、歌声が聞こえた。マーサの力強いアルトと、それに重なる綺麗なソプラノ(歌は佳境に入っているらしく、かなりの盛り上がりを見せている)。歌声が聞こえると、クロウは安堵のため息を盛大に吐く。「よかった、まにあったな!」と遊星に笑いかける。
そんな二人が「ただいま」も言わずに中へ入ると、まずソプラノが途切れ、次にアルトも途切れる。そしてソプラノの持ち主であるジャックが、台所から顔を覗かせて「遅いぞ!」だの「手を洗って来い、いやいっそシャワーを浴びろ」だの、偉そうに指示をする。クロウは「えらそうにしやがって」と毒づき、それでも素直に浴室へ向かった。遊星は、絵本をぎゅっと握り締めて、頷いた。
去り際に台所の奥を覗くと、マーサがまた歌い始めていた。先ほどと同じ曲だ。大きな鍋の前に立つ大きな後姿は、歌のリズムに合わせて、僅かに揺れている。横に立つジャックは、不器用ながらも包丁で玉ねぎを切っている。とん、とん、という包丁の音がリズムに乗っている。ああ、もうすぐソプラノも聞こえることだろう。
と、ここで遊星は気付いた。昔のジャックは、料理ができたのだと。
「昔は、お前も歌っていたな」
遊星から返された変化球に、ジャックの眉が跳ねた。柔らかい表情も、一瞬にして歪んでしまった。更に、いつもより一層低い声で「何年前の話だ」と言う。しかし彼は不機嫌になっただけであって、怒っているわけではない。それが判っているから、遊星は動揺しなかった。
「お前が声変わりするより前の話だから、十年……いや、もっと前か?」
なにやらぶつぶつ言い始めてしまった遊星を見て、ジャックはため息を吐いた。藍色の眼はジャックとクロウの間を行ったり来たりしているが、彼の口から出る言葉は、会話ではなく独り言になっていた。
一度考え込むと、とことんまで周りが見えなくなるのは、遊星の癖だ(癖ではあるが、悪癖ではない。少なくともジャックはそう認識している)。ジャックは会話を打ち切ることに決めた。
そして彼は浮かせていた背中をイスに凭せて、軽く目を閉じ、耳を澄ます。聞こえてくる鼻歌は懐かしく、穏やかだ。しかし昔とは少々違う。よく聞けば、少々音が外れている。そもそもマーサは鼻歌ではなく、意味のある詞をはっきりと歌っていた。そういえばマーサは昔、聖歌隊に入っていたとか……と、ゆるゆると進む彼の思考に、割り込んできたのは遊星だ。遊星はジャックの名前を、最初はこれといった感情も込めずに、次は問いかけるように、最後は苛立ちながら呼んだ。
棘のある声に驚いたのは、ジャックではなくクロウだった。驚いた彼がダイニングを覗くと、机の上に身を乗り出して「覚えているだろう?思い出すんだ!」と、なにやら熱心に問い詰めている遊星が目に入った。次に、遊星が問い詰めている相手であるジャックへと目を移すと、なんと、紫の目と視線がかち合ってしまった。つまりジャックは遊星の問い詰めを無視して、クロウを見ていたのだ。これはさすがに居心地が悪い(ジャックは鼻歌が途切れたことに気付き、クロウを見ただけなのだが)。
クロウは即座に遊星へと目を戻し、「どうかしたのかよ」と(誰にともなく)問うた。すると一拍ほどおいてから、ジャックが「いや、なんでもない」と答えるや否や、遊星が「いや、なんでもある!」と語気を強めて答えた。正反対の答えを、ほぼ同時に返されてしまった。「どっちだよ」とぼやくクロウの声をも遮る勢いで、遊星が続ける。
「クロウ、覚えてないか?ジャックが声変わりしたのは、何年前だったかを」
真剣な声で紡がれたのは、正直どうでもいい質問だった。しかもジャックの声変わりの時期なんて、さっぱり覚えていない。なんかいつの間にか低くなったよな、くらいの認識しかない。当たり前だ。常に一緒にいた人間の声変わりなんて、いちいち覚えているはずがない。観察日記でもつけていれば、話は別だが。
クロウは軽く唸って考えているふりをしてから、「覚えてねえけど、ハウスを出るちょっと前じゃなかったか?」と答えた。テキトーでありながら、一応、質問にも答えている。実を言うと面倒くさいからあしらっただけなのであるが、当の遊星は気付いていない(気付いたジャックは感心したような呆れたような目を向けてきたが、クロウは気にしない)。さらに、次の質問が来る前に台所へと戻った。お見事だ。その手腕に便乗してやろうとばかりに、ジャックは再び目を閉じる。やんわりと拒絶されてしまった遊星は、少々不満ながらも追求を諦め、目覚まし時計の修理を再開した。
器械いじりのかすかな金属音と、ところどころ音の外れた適当な鼻歌。昔とは違うはずなのに懐かしく感じるのは何故だろうか。そう考えながらも、ジャックは耳を澄ました。
懐かしい音/クロウと遊星とジャック/シティで三人暮らし/2009.08.29.
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