【サンキュー・トニー】

 彼が入れる紅茶には魔法がかかっている。
 本来だったら妖精も幽霊も魔法もファンタジーでしかないけれど、でも彼が入れる紅茶だけは例外だ。たったひとくち飲むとそれだけで、じんわりと体が温まる(たとえそれがアイスティだったとしても!)。それと、肩から力が抜ける。下手をすると肩どころか全身から力が抜けて、今抱えているやっかいな仕事も戦いも、全部彼に押し付けて甘えたくなる(そんな事、実際にはできないけれど)。
 ふしぎだなあと思いながら、もうひとくち飲む。今日の紅茶は、英軍のレーションの中にあったインスタントのミルクティだ。イギリスはちょっと皮肉っぽく笑って「こんなんでも気休めになるんだから、戦場ってのは不思議だよな」と言って地面に座った。そこで俺は改めて、ここは戦場なのだということを思い出した。
 見渡せば辺りには真っ暗な荒野が広がっている。昼間に比べればだいぶ静かになったけれど、それでもまだここは戦場なんだ。

 紅茶をもうひとくち飲んでから、ふと空を見上げる。
 空には、星がうるさいくらい瞬いていた。敵の姿は見えないし、物音ひとつしない。辺りは静かだ。それなのに、星が、うるさい。見ていると落ち着かない。足の指の先からざわざわとした気持ち悪い感触が登ってくる。ああ、やだやだ!いったいなんだっていうんだ!
 その感触が心臓にまで登ってこないうちに、俺はまた紅茶をあおった。ひとくちふたくち……あ、もうなくなった!
「なに、がっついてんだよ」
 イギリスが、優しい声でそう言った。優しい声なのに呆れたような言葉、わずかに上がった口角、細められた目、下がった眉尻。苦笑といえばそれまでだけど、妙に優しい。彼はそのままの表情で自分のカップを顔の高さまで持ち上げて、「こっちも飲むか?」と訊いてきた。
「いいのかい?」
「ああ。ひとくち飲めば充分だ」
 俺は、まだほとんど中身の減っていないカップを受け取った。空のカップは地面に置いて、ひとくち飲んだら、イギリスが「あんまりがっつくな。紅茶はゆっくり時間をかけて飲むもんだ」と言った。彼は夜空を見上げていた。
「今日は静かだな」
 ぽつり、と彼が言うので、俺は再び空を見上げる。
 さっきまでうるさかったはずの星は、静かに輝いていた。ざわざわとした気持ちの悪い感触も、もうない。代わりにあるのは紅茶の匂い。そして隣にいる、彼。

 世界は静かで、辺りは真っ暗だ。明るく希望に満ち溢れた世界は、すっかり変わってしまった。そこらじゅうに敵は潜んでいるし、味方だと思っていたみんなも次々とこの場所から(俺から)離れていく。
 それでも彼はここにいるんだ。隣で、肩を並べて、ずっとずっと。最初から、たぶん、最後まで。
「ありがとう」
 するり、と言葉が出ていった。きっと魔法のせいだ。普段なら絶対口にしないような言葉が、するすると出て行く。
「ありがとう。君が隣にいてくれて良かった」
 思いもかけない言葉に、彼は目を見開いた。けれどそれは一瞬のこと。彼はさっきと同じ優しい苦笑を浮かべて、俺の頭を撫でた。その手がひどく心地良くて、俺は目を閉じる。ああそうだこの手はいつだって俺を助けてくれるんだ(今だって、こんなにも安らかな気持ちを与えてくれている)。
 ありがとう、ともう一度呟くと、彼はもう一度俺の頭を撫でた。心地良いその手には、きっと魔法がかかっている。

サンキュー・トニー/米と英/2007.06.27.
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