「1オンスくらいのショットグラスはある?小さいのを、3つ使いたいんだけど…」
どこか遠慮がちにロシアは言った。
仕事用のこの部屋にグラスなどあるはずもないが、給湯室にならあるかもしれない。外に控えていた部下に伝えると、六分後には3オンスのグラスが三つ運ばれてきた。それより小さなグラスは無かったらしい。
「ちょっと大きいけど、大丈夫かな」
問うというよりは確かめる口調で言って、ロシアは大きなボトルを部下より受け取った(「リトアニア」と呼ばれた彼は、他の二名より随分としっかりしている)。そして「君達は、ちょっと外してくれる?」とロシアが言うと、三人の部下達は何度も大きく頷き、慌てて外に出ていく。なんだ、なにが始まるんだ?
ロシアは三つのグラスを横一列に並べると、ボトルの封を切って注ぎ始めた。透明なその液体は、考えるまでもなくウォッカだ。
「この三杯のウォッカにはね、それぞれ意味があるんだ」
三杯とも注ぎ終わると、ロシアはまっすぐ俺を見て言った。
「一杯目は、旅の杖。きっと、君はこれから長い旅をすることになる。その旅の途中で、君が転ばないように」
ロシアは片手で、右端のグラスを差す。「さあ、一気にいっちゃって」と彼は言う。
正直、ウォッカをストレートで飲むのは初めてなので少々不安だが、これを断るのは失礼に値するだろう(上司からも、くれぐれも機嫌を損ねるなと言われている。すなわちこれも仕事だ。仕事のうちなんだ)。
恐る恐るグラスに口をつけると、強いアルコール臭が鼻をついた。ビールとはまるで違うそれを、勢いよく喉へ流し込む。熱い。舌が焼ける。喉が焼ける。食道までもがじわじわと焼かれていく。これは本当に酒なのか?アルコール度数がきつい事は確かだが、あまりにも刺激が強すぎる。こんなものを飲み続けていたら、あっというまに体を壊してしまうだろう。
俺が一杯目を飲み干すと同時に、ロシアは中央のグラスを差す。
「二杯目は、健康のため。君がいつまでも元気でいられるように」
促され、二杯目のグラスを傾ける。一杯目よりも勢いをつけて、速く。
それにしても、これが健康のため?なにを馬鹿な事を。こんなものを飲んで、健康が保てるはずもないだろう。
食道が焼けて、みぞおちが熱い。胃も焼かれているのだ。熱くなったみぞおちに手を当て、「三杯目は?」と半ばやけくそ気味に訊くと、ロシアはうっそりと笑った。
「お腹が温まると体も温まるでしょ?火に当たって暖を取るよりも、ずっと効率的でしょ?だから僕はウォッカを飲むんだ。飲まなくちゃ、凍え死んでしまうから」
低く掠れた声で彼は言う。言われてみれば確かに効率的ではある。外から空気と皮膚越しに体を温めるよりも、内から粘膜を通して体を温めるほうが、手っ取り早い。彼が住む極寒の地であればなおさらだ。
「確かに効率的ではあるな。だが、医学的見」
「君にそう言ってもらえると嬉しいよ!」
人の話を遮って、ロシアはにっこりと笑った。先程とは違う、はっきりとした笑み。嬉しそうで、あまりにも邪気の無い笑みだ。彼の本心が判らなくなる。彼は何を考えている?俺を利用したいだけではないのか?なぜ、こんな酒を勧める?
疑問も尽きないうちに、ロシアは両手の指を組み、俺から視線を外して三杯目の説明を始める。
「三杯目は、永遠の友情。たとえ離れていても、敵同士になったとしても、ずっと友達でいられるように」
…………俺は、どうするべきだ?彼の言う友情を信じ、景気よく飲み干すか?これも仕事だと思って飲み干すか?丁重に断るか?頑として断るか?そろそろ頭がふらついてきたから勘弁してくれ、とでも言うか?ああ、駄目だ。考えがまとまらない。アルコールが頭にまで影響してきた。
テーブルの上には、大きなボトルと空になった二つのグラスと、最後の一杯。その透明な液体を眺めていたら、ふと視線を感じた。顔を上げれば、ロシアと目が合う。不安そうに揺れるその目には、言い知れぬ圧力がある。
俺は目線をグラスに戻し、喉元に手を当てて確かめた。あと一杯なら、なんとか飲み干せるだろう。
勢いをつけてグラスを傾ける。熱い液体が舌を焼き喉を焼き食道を通って胃に火を点ける。まるで毒を煽っているような気分だ。
空になったグラスの底をテーブルに叩きつけると、ロシアは「ハラショ!」と言って手を叩いた。
「じゃあ、僕も付き合うよ!」
彼は満面の笑顔で二つのグラスにウォッカを注いだ。そして片方のグラスを俺の手前に置いた。まさか、まだ飲めと言うのか?
「はい、こっちはドイツ君のぶん。今夜はいっぱい飲もうね!」
「もう目一杯飲んだのだが」
「なに言ってるの?三杯なんて、飲んだうちに入らないよ!」
輝かんばかりの笑顔で、彼は言い切った。
俺はこの先、こいつとうまくやっていけるのだろうか。不安だ。とてもじゃないが自信がもてない。
水より透明なもの/独と露/2007.07.15.
元ネタ→酒井陸三「ロシアン・ジョーク」
作品ページへ戻る