力尽くで手に入れたものを手放すのが怖くなくなったのは、いつからだろう。
アメリカが勝手に大きくなって、俺から離れていった時からか?いや、あの後の俺はいっそ惨めなほどに荒れていた。荒涼たる心を抱えながら暴れまわっていた。半ば八つ当たりに近かったのかもしれないが、暴れていなければ自分自身が壊れてしまいそうだったのだ。今にして思えば、あの頃の俺は孤独を恐れていたのだろう。力尽くでもなんでも、誰かを傍に置いておきたかった(誰でも良かった。誰でもいいから傍にいて欲しかった。それが本音だった)。
そんな折に彼女と初めて会ったわけだが、その出会いが俺に劇的な変化をもたらしたとは言い難い。彼女と出会った後だって、俺は相変わらず暴れまわっていた。
転機と呼べる瞬間は無かった。全ては緩やかに変化していく。世界が急流に呑まれ忙しなく変動しても、俺だけはあくまでも緩やかに、しかし確実に変わっていく。やがて、焦ってばかりいた気持ちは落ち着き、走ってばかりいた足は減速し、周りの景色を楽しみながらゆっくりと散歩できるようになった。
頑固だとか保守派ここに極まれりなどと言われる俺だって、確実に変わっていくのだ。その証拠に今の俺は、力尽くで手に入れたもの達を手放す事も怖くなくなったし、大きくなったあいつの背中を押してやる事もできるようになった。
セーシェルが大使館を引き払う事になったと聞いた時も、動揺はしなかった。そもそも、二十一世紀に入ってもまだロンドンに大使館を構えていることのほうが不思議だ。うちの連邦に加盟しているとはいえ、彼女はとっくに独立していたし、彼女の上司達は俺の事を大層嫌っているのだから(ちなみにフランスの事は大層好いている。シュミの悪い奴らだ)。
月末に引き払う事となった館内は、月初めから順々に片付けられていった。そして最終日である今日には何も無くなり誰もいなくなり、館内はがらんどうになった。そんな中でセーシェルは俺を見上げてこう言う。
「これでもう、だれかさんの顔見なくてすむんだと思うと、せーせーするわあ」
灼熱の太陽をそのまま映したような、晴れすぎた笑顔。わざとらしい。皮肉にすらなっていない、ただの当て擦りじゃねえか。
「もっと気の利いたこと言えねえのか」
「えっごめんなさい冗談です冗談!まじで!ちゃんと会議も競技会も出席するし、こちらにいらしやがった際には誠心誠意込めて歓迎してやりますので怒んないでまじやめて!」
なにを勘違いしたのか、彼女は勢い良く首を左右に振りはじめた。出会ってから随分と経っているのだが、未だにこいつの思考回路はわからない。
第一、俺と関わりたくないのならば、さっさと帰ればいいのだ。こんな所に突っ立ってないで、とっととホテルへ帰って荷物をまとめて飛行機に乗り込めばいいのだ。
こんなふうにいつまでも隣に立っていられると困る。もしかして彼女は俺の傍から離れる気など無いのだろうか、という愚にもつかない勘違いをしそうになるのだ。ばかばかしい。在り得ないだろう、そんなこと。死活問題でも無い限り、俺の元に居たがる奴なんか、いないのだから(それは、唯一愛情を持って育てたあいつが身を以って証明した)。付かず離れずの関係を維持する奴らだって、損得勘定で動いているだけだ(あのワイン野郎が最たる例じゃないか)。俺はいろんな連中から必要とはされているが、好かれてはいない。そんなことはもうわかっている(判るくらいには、年を取ったのだ)。
どちらからともなく部屋を後にし外へ出ると、雨が降っていた。細かい雨が音も無く降っている、いわゆる霧雨だ。街全体が霧に包まれている。こんな雨では、傘など差しても差さなくても同じだ。レインコートを着てきて正解だった。ただ、視界が悪い。そして気温も少々低く、肌寒い。
寒さが苦手なセーシェルは、震える己の体を両腕で抱いて「さむい」と呟いた。しかたねえなこんなんでも一応女性だ、と頭の中で言い訳をしながら、俺は上着を(レインコートを)脱ぐ。脱いだ上着を黒い頭に被せてやると、変な悲鳴が上がった。
「ぴぎゃあっ!なにこれもしかして逮捕された人が被ってるやつ!?っていうかどこへ連行するおつもりかあ!?」
「ホテル」
「んなっななななんですと!?最後に一発やっちまおうってぇ魂胆かこのエセ紳士!エロ紳士!」
「妄想で喋ってんじゃねえぞこのマグロ女!てめえが泊まってるホテルまで送るだけだ!」
「え?あ、ああ、なあんだそういうこと」
「わかったんなら、とっとと行くぞ」
奇妙な誤解もとけたところで手を差し伸べたら、彼女は少し躊躇した(明らかに、遠慮するポイントを間違えている)。
「寒いし視界も悪いだろ。足下も滑るぞ」
ため息を出さないように気をつけてそう言ってやると、彼女はぎこちない動きで俺の手を取った。柔らかくて、冷たい手。軽く握って引っぱると、彼女は意外なほど大人しくついてきた。
ホテルには、歩いて五分足らずで着く。五分足らずの間、歩幅を合わせて歩いている間、ずっと彼女は俺の手を離さなかった。
冷たかったその手は、時間と共に暖かくなっていく。逆に、俺の体温は下がっていく(熱が奪われていく)。雨に濡れた髪もシャツも、肌に張り付いて気持ち悪い。思っていたよりも雨量は多いようだ。
「降るなら降るで、スコールみたいにどざあっと大降りすればいいのに」
彼女は不満そうに呟いて、俺の手を強く強く握り締めた。はっきりしなさいよ、と言われているのは雨か俺か。どちらにせよ気分が悪い。曖昧なままでいるというのは、そんなに悪い事だろうか?焦らずとも緩やかに時は流れ、空は晴れ景色は変わり、俺達だって変わっていくのに。この世界には、変わらないものなど何ひとつとして無いのに。
「霧雨だって、そのうち止むだろ」
遠回しに言って、彼女の手を強く握り返した。雨はまだ降っている。
緩やかに流れる/英セ/2007.07.28.
2003年10月末日、在英大使館閉鎖。
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