「朝だぞ」と、昼間には聞く事のない優しい声で彼が言うので、私は目を開いた。部屋の中はまだ暗い。いまなんじ、と呟けば彼は「6時半」と答え、寝返りを打とうとする私の肩を掴んだ。それから、ぐい、と、若干強いけれども乱暴ではない程度の力に押され、私の体は仰向けになった。天井をバックに彼の顔が見えて、そこで初めて目が合う。
彼はどうやらシャワーを浴びてきたらしく、石鹸の良い匂いがする。手を伸ばして触れた柔らかい髪は、まだ湿っている。上半身は裸のままで、白い肌は相変わらずすべすべでちょっと悔しい。くっきりと綺麗に出ている鎖骨は心底羨ましい。そのラインを指でなぞってくぼみの部分を、とんとん、と叩いたら、彼の喉仏が動いた。
「悪い。緊急で仕事が入った」
ぴしゃり、と甘さの欠片も無い声で言われて目が覚めた。そうだった、今日は休みだから、彼も私もゆっくり眠るつもりだった。起きてからも一日ゆっくりしていようって約束だった。
白い肌から手を離して体を起こす。昨夜の名残で痛む腰をさすると、彼はアイスティの入った冷たいグラスを、からん、と鳴らして「飲むか?」と訊いてきた。私は両手でグラスを受け取る。ミルクの入っていないストレートティに、ミントの葉が浮いていた。グラスを傾けると、渇いた喉に清涼感たっぷりの水分がぐんぐん沁み込んでいく。
一気にグラスを空にして、ちょっと可愛くないため息を吐く。すると彼は眉を顰めて「朝っぱらからオッサンみてえな声出してんじゃねえよ」と言った。すいませんね、かわいくなくて。
それはともかくとして、喉も潤った事だし、そろそろ喋るとしましょうか。
「仕事って、帰りは遅くなるの?」
「昼頃には一度戻る」
短く答えて、彼は服を着始めた(アイスティと一緒に持ってきていたらしい)。それにしても、昼頃に一度戻るって事は、戻ってもすぐに仕事へ行くって事なのかしら。折角の休日なのに。考えながら、ぼうっとしている間にも、彼は黙々と真っ白いシャツに腕を通す。その瞬間、うなじの下から左肩にかけて、赤い引っかき傷が幾筋もあるのが見えた。白い肌に赤い筋がくっきりと浮かんでいる。
もちろんその傷は私が付けた物なのだろう。けれど私はそんなに強く引っかいたのかな、覚えていない。そう思うと同時に昨夜の事を思い出してしまった。熱っぽい記憶がよみがえり、頭がぼうっとする。おへその下が熱くなる。あ、これは、ちょっとやばいかも。寒くもないのに震えそうになる体を、自分で抱きしめる。抑えつけるように強く強く。すると、二の腕に爪が食い込んだ。痛い。爪が伸びてきたのかも。そう思い当たったところで、ようやく平常心を取り戻せた。
二の腕から手を離し、指をまっすぐ伸ばして爪を見ると、やっぱり長くなっていた。おまけに右手人差し指の爪が、少し欠けてギザギザになっている。なるほど、これで引っかいたのなら傷も出来るわ。
「セーシェル」
ふいに名前を呼ばれた。びっくりして顔を上げると、ネクタイまで締め終えた彼が、なぜか神妙な表情をして近付いてきた。そしてベッドに手を付いて、私の耳元に顔を寄せる。というかちょっと待ってくださいこのまま押し倒すとか無しでしょっていうか無理だから!
けれど慌てる私とは対照的に、彼の声はしっかりしていた。
「前言撤回だ。昼までには仕事終わらせて帰ってくる」
「くぁ?」
「別に他意は無いからな。そもそも休日だってのに呼び出すゴードンが悪いんだ」
「そんなんでいいの?いちおう上司でしょ」
「いいんだよ!」
言うだけ言うと、彼は私の唇の端に触れるだけのキスをした。そして私から離れて立ち上がり、一目散にドアへと向かう。照れているのか怒っているのか、一刻も早く現場へ行きたいだけなのか、わからない。まあいいか。どっちにしろ、すぐに帰ってくるみたいだし。
「いってらっしゃい」
私がそう言うと、彼はこちらを振り返った。その表情は思ったよりも柔らかい。彼は少し笑って頷いて、ドアを開けて部屋を出ていった。
私はこれからまた少し寝て、起きたらシャワーを浴びて爪を切って、それからお昼ご飯を作って彼を待とうと思った。
戯れに触れる/セーシェルと英/2007.8.25.
ゴードン=英の現上司
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