最近、ロシアさんはよく笑うようになった。昔のように狂気じみた怖い笑い方ではなくて、心から嬉しそうに笑うようになった。消毒液のようなウォッカをボトルごと一気に飲むこともしなくなった。かわりに飲むのはビールか紅茶になった。
キッチンの戸棚には、様々な紅茶の缶が入っている。けれどロシアさんは茶葉にこだわりなど無いらしい。いつも「君が飲みたいものでいいよ」と言われる。それは今の僕に許された唯一の自由かもしれない(それでもイギリス製品だけは選べないのだけれど)。
その日の気分で選んだお茶を出すと、ロシアさんは子供のように笑って「おいしいね」と言う(本当にこの人はよく笑うようになった)。その言葉を聞くと、僕は少し安心して、少し救われたような気分になる。
最近、ロシアさんはよく街中を散歩するようになった。薄手のジャケットを羽織っていつものマフラーを巻いて、これといった目的地も無しに歩くようになった。ふらりと立ち寄った店でハンバーガーなどをテイクアウトして、公園の噴水の縁に腰かけて、道行く人々を眺めたりもするようになった。
そういう時のロシアさんの目は、とても和らいでいる。「ねえ、ラトビア」と僕を呼ぶ声も柔らかい。「みんな楽しそうだね」とロシアさんは眩しそうに目を細めて言う。
座っているロシアさんと立っている僕の目線の高さはほとんど変わらない(今なら同じものが見えるかもしれない)。辺りを見渡せば確かに、公園にいる人々は幸せそうだ。高い声ではしゃいで走り回る子供達、ファッション誌を広げて話に花を咲かせている女の子達、笑って小突きあいながら歩いている男の子達、背筋を伸ばして足早に歩いて行くスーツ姿の人達、赤ちゃんを連れた若夫婦、二人でベンチに座ってにこにこしている老夫婦。みんな、いきいきとしている。
ロシアさんは暗くなるまでずっと飽きもせずに、道行く人々を眺めている。相も変わらず諸外国での評判は最悪だけれど、それでもロシアさんは嬉しそうだし、公園にいる人々は人生を高らかに謳歌している。
最近、ロシアさんはその大きな手で僕の肩を包むようになった。掴むのではなくて、片手だけを僕の肩に乗せるようになった。その手の大きさが(それから僕の肩の小ささが)起因して、包まれているような気分になる。
ロシアさんの手は暖かい。というか暖かくなった。昔、僕の両腕をがっしりと掴んだあの手は、恐ろしく冷たかったのを覚えている(エストニア曰く、ウォッカの飲みすぎで体温調節機能が壊れていたらしい)。
ロシアさんは世間話でもするかのように軽い声で「ねえ、ラトビア」と僕の名を呼んで言う。
「君はいつまで震えてるの」
そう、僕は相も変わらずに震えている。けれど最近、この震えの原因がわからなくなってきた。恐怖なのか、緊張なのか、それとももっと別の何かなのか、今の僕にはわからない。昔はただ単純に怖くて怖くて震えていただけなのに。
なんとも言えずに口ごもっていたら、ロシアさんは僕の肩を軽く叩いて手を離した。そして満面の笑みで「お茶が飲みたいな」と言う。僕は、はい、と裏返った声で頷いてから大急ぎでキッチンへ向かった。
暖房の行き届いていない廊下を歩きながら、震える両手を心臓の位置に押し当てて「落ち着け落ち着け」と言い聞かせる。こんなに震えていたら、おいしいお茶なんて淹れられない。
お茶、そうだ、どのお茶を淹れるか考えないと。どうしよう。ええと、なんとなくミルクティが飲みたい気分だから、ダージリンを濃い目に入れようか。あ、でも、先週フランスさんから貰ったアップルティも捨てがたい。
悩みながら歩いてキッチンに着いた頃、体の震えがすっかり止まっていることに気付いた。
僕だっていつまでも震えているわけじゃないんだ。
暖冬/ラトビアとロシア/2007.9.24.
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