本日は晴天なり。もう冬だというのに、棲んだ空に輝く太陽がこの街の空気を暖めている。朝もたいして寒くなかったが、昼過ぎを回った今はコートもいらないくらいに暖かい。道の端に寄せられた雪も、少し溶けて光っている。
大通りを行く人々は皆、薄手のジャケットだけを羽織って歩いている。付き合い始めて二ヶ月目の、俺の可愛い彼女に至っては、朝に着ていたダウンジャケットを脱いで、ミニスカート姿で歩いている。しかも、ロングブーツを履いてはいるものの素足で。
真っ白い太ももを晒した彼女は、今日はあったかいわね、まるでロシアじゃあないみたい!と言って、おかしそうに笑った(やばい、かわいすぎる!)。
すると突然、一人の男が話しかけてきた。
「本当に、最近はあったかいよね」
その男の声は、妙にはっきりと聞こえた。周りでは大勢の人達が好き勝手な話をしながら歩いているというのに、その静かな声は、はっきりと聞こえたのだ。間違いなく俺達に話しかけているのだということがわかったのだ。
声の主は背の高い大きな体に、どこかお坊ちゃま然とした、甘ったるいような子供っぽいような顔を乗せていた。年は二十代の半ばか後半といったところか。なんとなく、浮世離れしている印象を持つ男だ。
しかしこの男、「あったかいよね」と言ったくせに、長くて分厚いマフラーを巻いていた(コートは薄手のようだが)。
「君たちは、あったかいの、好き?」
人懐っこい笑顔でそう訊かれて、俺達はちらりと顔を見合わせた後、頷いた。すると彼は嬉しそうに何度も頷き返す。
「そうだよね、いいよね!あったかいと街のみんなも元気だし!ああ、もっともっとあったかくなればいいのに!」
彼は満面の笑顔でそう言った。
この男は本当に、ただ純粋にそう思っているのだろう。聞いただけでわかる。これは心からの願いなんだ。彼は、大人や外国人が言っているような小難しい理屈なんか抜きで、この街やこの国がもっともっと元気になっていけばいいと思っているんだ。
俺だけじゃなく彼女にも、この男の純粋な願いがわかったらしい。彼女はにっこり笑い、そうね、あったかくなればフランス人みたいにおしゃれもできるし、と言って男の話に乗った。微妙に話がズレた気もするが、男は別段気を悪くしたふうでもなかった。代わりに少しだけ驚いた顔をして、彼女の頭のてっぺんからつま先までをじろじろと眺めた。意外と失礼な奴だ。しかし、いやらしい感じは全くしない。ただ眺めてみただけのようだ。
「そっか、女の子だもんね。もっともっと、おしゃれもしたいよね」
男がそう言って返すと、俺のかわいい彼女は嬉しそうに笑って喋り出した。キャミ一枚で外を歩いてみたいだとか一年中ミニスカを履きたいなどと、早口で喋り始めた。一所懸命喋るその姿もかわいい。でも、どう考えても、初対面の男にする話じゃあない。
しかし男は嫌な顔一つせずに、それどころか親身になって話を聞いていた。その人懐っこい笑顔と相槌に促されて、彼女はとりとめのない事を延々と話し続ける。まるでまくし立てるように、浅い息を何度も何度も吸って、矢継ぎ早に話し続けている。
……この光景は少しおかしくないか?初対面の人間相手に、なんでここまで……そういえば、さっき顔を見合わせたきり、彼女は俺を見向きもしない!ずっと男と話している!白い息を吸って吐いて、頬を赤くして、上目遣いで、一所懸命に話し続けている!
俺は急に不安を感じた。最初は少し気になっただけなのに、夢中になって話し続けている彼女を見ているうちに、どんどんと不安は大きくなっていく。終いには、目の前の男に、彼女も何もかも全て持っていかれてしまうんじゃあないかと思ってしまった。大げさかもしれない。けれど、とりあえず話の邪魔くらいはしないと安心できない。
しかし感情にまかせて怒鳴ったりするのはまずい。俺の勘違いという可能性もあるし(というか勘違いであってほしい)、それに第一かっこわるい。などと悩んだ末、俺はできる限りの冷静な声で、あんまりあったかくなってもまずいだろ、地球温暖化とかいろいろあるし、と言ってみた。
すると男は急に笑みを消した。そして少し傷ついたような、それでいて酷く冷たい目で俺を見下ろした。
その目に見下ろされただけで俺の足は竦み、背筋は凍ってしまった。胸が苦しい。心臓が動いているのかもよく判らない。息もうまく吸えない。後ずさりしようにも体が動かない。そのくせ歯だけはガチガチと大きな音を立て震えている。寒い。どうしようもないくらい寒い。悪寒が走る。なんだんだ、この冷気は。一体何者なんだ、この男は!
ところが、彼女が心配そうに俺の顔を覗きこむと、得体の知れない冷気は一瞬で解けた。
周りの空気が暖かさを取り戻し、俺は大きく深呼吸することに成功した。眉間にシワを寄せた彼女は、真っ直ぐ俺を見ている。気遣わしげに、どうしたの、だいじょうぶ?と訊いてくる。ああ、よかった、元通りだ。
安心して顔を上げると、男は、まるで何事もなかったかのように笑っていた。邪気のない、子供のような笑顔をしていた。そして「デートの邪魔しちゃってごめんね。でも、僕はナンパしようとか思ってたわけじゃ、ないからね」と言い、あっさりと背を向けた。どうやらあの男には、俺の考え(というか勘違いだ)がバレてしまったらしい。
彼の大きな背中は、人混みの中でもまっすぐ歩いていく。堂々としたその姿を見ていると、自分が惨めに思えてくる(勘違いして嫉妬して、睨まれてビビって……俺ってかなりかっこわるい)。
けれど彼女が俺の腕に抱きついて、やきもち妬いてくれたの、なんて、かわいいことを言うもんだから、惨めな気持ちも一気にふっ飛んだ。彼女は小さくて冷たい手で、俺の手に触れた。俺の手は、あまり大きくもないし綺麗でもない。それでも彼女は、あったかいわね、と言った。
温度/あるロシア人少年少女と露/2007.12.15.
ロシアの現大統領は「(温暖化のおかげで)毛皮コートを買う金も節約できる」と言っていたそうな。
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