「だから、二島なら、いつでも返すって言ってるでしょ?」
彼はいつもと変わらぬ、ゆったりとした口調で言い切った。私の淡い期待を、見事に裏切った(期待、そうだ私は期待していたのだ。こんな男相手に!)。頭に上ってきた怒りという感情を幾分か抑えて睨みつけても、彼の表情は変わらない。口元には薄い笑みすら浮かんでおり、紫の瞳などは私を見ているようで、その実どこか遠くを見ている有様。余裕そのものだ。
私はテーブルを叩きたい衝動を抑えて、目の前のコーヒーをひとくち飲む。落ち着け落ち着け、怒りに訴えたところで問題は解決しない。胸中でそう唱えていると、彼は面倒くさそうに「君も執こいね」と言った。執こい?どっちが!?
「あれは私の一部です」
「冗談。僕のものだよ」
「しかしあなたは今、返す、と言った」
「言葉尻を捕らえるのがうまくなったね。でも、口約束を信用しちゃだめだよ」
彼は「それくらい、君にもわかるでしょ」と畳み掛ける。するとどうだろう、私は言葉に詰まってしまった。そして返す言葉を探しているその隙に、彼は憑き物が落ちたかのように優しく(いつものお着せの笑顔ではなく穏やかに)微笑んで、「じゃあね」と言い捨て、席を立った。一瞬の早業だった。私は呆気なく取り残された。
釈然としない心持ちで彼の背を眺めるが、もちろん彼は振り返らない。ただただ足早に去っていくのみだ。はて、何を急いでいるのだろうか。
と、ここに来てようやく、私は違和感を抱いた。なぜ、彼は足早に歩いているのだろう(いつもならば長い足でゆったりと歩いているはずだ)。なぜ、一瞬の隙をついて立ち去ったのだろう(まるで逃げるように!)。なぜ、彼はコーヒーに手も触れなかったのだろう。
もやもやと現れ凝固した疑問が氷解する頃には、彼の姿なぞ、とっくに消え失せていた。要するに彼は、この話題を避けたかったのだ。避けられないのであれば、手短に切り上げたかったのだ。話が長引き、進展することを恐れたのだ。つまり先ほどの笑みは、安堵の笑みだったのだ。
私は残ったコーヒーを一気に飲み干し、空のカップをソーサーに叩きつけた。
水掛け論すら停滞中/日と露/2009.07.11.
むしゃくしゃして突発で書いた。反省している。
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