ケルベロスは人間が嫌いだ。なぜなら人間は、犬語も猫語も豚語も解さないからだ。奴らは人間語しか解さず、そして他の動物も同様に、自分たちの言葉しか解さないと思っているからだ。あげく「犬に言葉がわかるかよ」などとぬかす馬鹿ばかりだからだ。
だがケルベロスはヒル魔が大好きだ。なぜなら彼は、自分の言葉を寸分の違いも無く理解してくれるからだ。時には犬同士でも誤解の生じる言葉をも理解してくれる、唯一無二の存在だからだ。
「テメーら、ケルベロス洗ってけ」
用具を片付け終わり、さあ着替えて帰ろうと思っていたセナは「え?」と首を傾げた。突如放られた「ケルベロス」と「洗う」という単語が、うまく結びつかなかったのだ。
犬というより猛獣に近いケルベロスは、プライドが高い。おとなしく洗われてくれるとは思えないほどに。しかもケルベロスは賢く、器用だ。もしかしたら自分で自分の体を洗えるかもしれない、とセナは思った。隣にいるモン太も怪訝そうだ。「洗うって、シャンプーっスか?」と両手で自らの頭を洗うジェスチャーつきで訊いている。
ヒル魔は怒るでもなく笑うでもなく、ぶっきらぼうに「おう」と応えた。ぽいっと手首だけでシャンプーのボトルとタオルを投げる。それらをモン太が反射的にキャッチすると、ケルベロスが彼達の足元に駆け寄ってきた。ザザァッと土煙をあげ停止すると、ヒル魔を見上げて「わぉん」と珍しくも控えめな声で鳴いた。吠えたのではなく鳴いた。いったい何事だろうと不思議がる二人をよそに、ヒル魔は足元の獣へ「ダメだ。我慢しろ」と言い聞かせている。
「もしかしてケルベロスって、シャンプー嫌いなんですか?」
「んなこたねー」
問う後輩にそう言い捨て、金髪のキャプテン様は部室へと入ってしまった。「じゃあガマンしろって、どういう意味ですか?」という問二は、セナの口から出ることなく消えた。
「なー、犬って、どーやって洗ったらいいんだ?」
「さぁ……猫なら洗ったことあるけど」
すっかり洗う気になっているモン太へ、セナは不安そうに答えた。自宅で飼っている猫なら何度も洗っている。猫も犬も、似たようなものかもしれない、とは思う。しかし、犬は犬でもケルベロスなのだ。ケガの一つは覚悟しなければなるまい。いや、ケガが一つで済めばかなりの幸運だ。なんでヒル魔さんはこんなハイリスクノーリターンの雑用を命じたのだろう。セナは長い息を吐いた。考えたところで、どうせ拒否権など始めから存在していないのだ。だったらやるしかない。
さてどうしようかと話す二人には目もくれず、当のケルベロスは閉められたドアをじっと見つめていた。彼の小さな尻尾は力無く垂れている。
ケルベロスは風呂が嫌いなわけではない。毎日体を洗いたいとは思わないが、たまに洗われるのは好きだ。泡の匂いも好きだし、自分の足では届かない背中などを洗われるのも気持ちが良い。上から水をかけられると驚くが、その後にふわふわのタオルと暖かいドライヤーの風で体を乾かされている時は、気持ちが良すぎて眠ってしまうことさえある。
ただし、それらは全てヒル魔に洗われている時のみだ。言葉が通じ、しかも気の利く彼の風呂は最高だ。それに比べて、他の連中はどうしようもねえ糞ばっかりだ、とケルベロスは思う。
まず、栗田は論外だ。
出会って間もない頃に「僕が洗うよ」と言ってきたので任せてみたことがあるのだが、散々だった。
最初のうちは腫れ物に触るような手つきだった。水すら手ですくってかけるという有様だった。じれったいことこの上ない。この時点ですでにケルベロスはイライラしていたが、まだ耐え切れていた。
だが、栗田がケルベロスの左胸にこびりついた汚れを見つけるや否や、事態は急変した。彼は「ちょっと痛いかもしれないけど、がまんしてねー」と言いながら、力を込めてこすり始めてしまったのだ。普通の人間ならまだマシだった。少々痛いくらいで済んだだろう。だが相手は栗田なのだ。力持ちとか馬鹿力などというレベルではない、クレーンやトラックをも壊すアリエナイパワーを有する栗田なのだ。しかも一点に集中すると完璧に周りが見えなくなる性質をも持っている。
つまり、汚れを落とすことに集中していた栗田は、ケルベロスが口から泡を吹いている事にも気付かなかったのだ。「おいなにやってんだ!そいつ死んじまうぞ!?」とムサシが止めてくれなかったら、ケルベロスの命はそこで終わっていたのかもしれない。
栗田の後を引き継いだムサシは、とにかく荒っぽかった。
彼はやたらと指に力を入れて、非常に大雑把な手つきで全身を洗っていく。短い爪が食い込む事は無いが、痒いところに手が届かないとは正にこのことだ。足も顎の下もノータッチのまま彼は「よし、じゃあ流すぞ」などとのたまった。おいおいもう終わりかよ。そう抗議してやろうとケルベロスが上を向いたら、今度は水が降ってきた。限界までゆるめられた蛇口から、大量の水が一気に降ってきた。
あとはもう散々だった。
突然の水に驚いてケルベロスは暴れた。それをムサシは両腕を使って、なんとか押さえ込む。しかしケルベロスはますます強い力で暴れだした。後ろ足や尻尾まで使って、バシャバシャと水を跳ねさせ抵抗する。そしてついにはムサシの右腕を食いちぎらんばかりに噛み、逃走してしまったのだった。
びしょ濡れの体を走らせながらケルベロスは思った。足に噛み付かなかっただけ有難いと思えこの糞キッカー!まったくどいつもこいつもなっちゃいえね!!タオルは、ふわふわのタオルはどこだ?なあヒル魔お前なら持ってんだろ?洗いたてのタオル!ふわふわのやつ!
それはもう百獣の王さながらの雄叫びを上げながらケルベロスは走った。この気持ちを寸分の違いも無く捉えてくれるであろう人間のもとへ。
あんな目にあうのは二度とごめんだ。ケルベロスはそう思うのだ。しかし同時に、ヒル魔の言い分も判ってしまう。
まず第一に、ヒル魔はとにかく忙しいのだ。今だって、ようやく増えた部員を更に増やすための準備を進めつつ、今週末の試合に向けた作戦をも考えている。どちらも(とくに後者は)彼にしかできない作業だ。今夜もひとりで部室に泊まり込んで進めるつもりだろう。
第二に、ヒル魔はアメフト部のボスなのだ。諸々の仕事を放ったらかして、ボス自ら風呂の手伝いをするなんて、とんでもない事だ。手下どもへの示しがつかなくなる。群れのボスというのは大変だ。ひとりでいるほうがずっと楽だとケルベロスは思う。しかし、ひとりでアメフトはできないのだ。なんとも難儀な事だ。
「ケルベロスー!いくぞーっ!」
初めて動物を洗うらしいモン太に名前を呼ばれて、ケルベロスはゆっくりと振り返った。モン太はうきうきとした様子でシャンプーボトルを振り回している。やる気充分といった感じだ。その後ろではセナが、ふわふわのタオルを持って苦笑いしている。
こいつらの腕前がどんなものかは知らないが、どうせロクなもんじゃない。ケルベロスは思う。早めに切り上げようと。こいつらの頭に噛み付いて、タオルを引っつかんで逃げようと。そしてヒル魔に言っておこう。風呂は、お前がヒマなときだけでいい、と。
SOMETIMES/ケルベロス
/2005.12.24.
BGM:Y&Co「POODLE」(beatmaniaUDX12thより)