不可解

 人間は、己の理解が及ばない存在にこそ恐怖する。
 だからこそ俺は雲水さんを恐れている。今日という日もとっくに暮れて先輩達も後輩達も帰ってしまったというのにまだ「もうひとっ走りしてくる」などと言う彼が、俺には理解できないのだ。ロッカールームに置かれたベンチに腰掛けて、雲水さんは黙々と靴を履き替えている。スパイクを脱いでスニーカーを手に取る彼の横顔からは、何の感情もうかがえない。何を考えているのかも判らない。こういう雲水さんを見るたびに、俺は畏怖の念を抱くのだ。

 もちろん彼の弟である阿含さんも怖いけれど、あの人は自分の意見や感情を隠さない分、非常にわかりやすいのだ。それに俺は阿含さんに気に入られている。人の名前すらまともに呼ばないあの人が、俺のことだけは「一休」と極めて普通に呼ぶのだ。そのせいもあってか、俺はあの人を恐れた事など無い。天賦の才を見せ付けられ戦慄する事があっても、畏怖の念を抱いた事など一度も無いのだ。
 そんな阿含さんとは真逆の存在と言っても過言ではない雲水さんを、俺は恐れている。
 先に断っておくが、雲水さんはとてもいい人だ。真面目で誠実で自分に厳しく努力を惜しまないその姿は、高潔な修行僧をも思わせる。だからといって近寄り難い性格というわけでもない。彼は誰にでも分け隔てなく平等に接し、どんな時でも穏やかでそして冷静だ(弟に関しては例外だが、それすらも周囲の寛容さと兄の厳しさとで上手くバランスが取れている)。彼はチームの精神的支柱であり、尊敬すべき崇高な存在だ。事実、俺も皆と同じように彼を尊敬している。
 しかし、俺には彼という人間がまったく理解できない。

 毎朝誰よりも早く練習を始め、毎晩誰よりも遅くに練習を終える彼は、靴を履き終えベンチから立ち上がった。そしてこれから夜の闇を走りに行くのだ。
 そんなに練習をして努力を重ねたからといって阿含さんに追いつけるわけでもないのに、なぜ止めようとしないのか。無駄だとは思わないのか。惨めだとは思わないのか。苦しくはないのか。わからない。
 彼は狂っているのではないかとすら思う。努力できるという事も一種の才能だと言う人もいるけれど、雲水さんはそんなものを軽く超えている。才能なんていう言葉一つで片付けられてたまるか。だいたい彼の狂気じみた努力とやらも才能だというのなら、どうして俺はこんなにも彼を畏れているのだ。彼の努力は才能ではない。努力は努力でしかない。そして元来、努力というもの自体には意味など無く、結果が伴って初めて評価されるものだ。しかし彼が出す結果はどんなに素晴らしいものであったとしても、それらは全て弟の影に霞んでしまう。そんなことはもうわかりきっているはずだ。身に染みているはずだ。それなのになぜ彼は止めようとしないのか。
 だめだ。考えれば考えるほどわからなくなる。わからないという事は恐怖に繋がる。このままでは心臓に悪い。なんとかならないものか。

 俺はじっとりと汗ばむ手を握り締める。顔の筋肉を総動員して、呆れたような馬鹿にしたような表情を作る。そして、ロッカーから上着を取り出す彼へ向けて、挑発の言葉を投げつけた。

「なんで、そんなにがんばるんすか」

 どうせ無駄なのに、とまでは言えなかったけれど(なぜなら俺はこの人を打ち負かしたいのではなく理解したいからだ)、これで充分だろう。さあ乗ってこい。怒りをぶつけてくるか、それとも悲しんでみせるか、どちらでも良いから。さあ。
 しかし、そう構える俺の意に反して、雲水さんは淡々と答えた。

「俺にはこれしか無いからな」

 上着を羽織る動作や、出口へ歩いて行く足取りや、彼の表情や声からは、何の感情もうかがえない。挑発は受け流されてしまった。なんてことだ。せめて少しでも動揺してくれたのなら、理解できたのに。
 やはりわからない。理解不能だ。この人は俺とは違う次元に住んでいる。



不可解/一休と雲水/2006.04.20.
一休は阿含寄りの思考回路の持ち主だと思います。
BGM:Nujabes「sea of cloud」