とくに意味の無いはなし
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ヒル魔が大きなスーツケースを二つも転がしていたので、阿含は「持ってやろうか?」と言った。すると悪魔はあからさまに嫌そうな顔をした。機嫌は急降下だ。
なんで怒るんだよ俺がなんかしたかよ、と阿含は悪魔を睨みつけた。だが、その程度で屈する相手ではない。脅しも暴力も、この悪魔には通じないのだ。
じろりと阿含を見返したヒル魔は、右手で持っていたスーツケースを軽々と持ち上げ、阿含の顔面に叩きつけた。顔に当たる寸前でケースを受けとめた阿含は、コイツって意外と力あるんだなあ、と少し驚いた。ヒル魔は舌打ちをひとつ零し「女扱いすんな」と言い捨て、駅へ向かってずんずん歩いて行く。いつもながら、ヒル魔は歩くのが速い。阿含はスーツケースを抱えたまま、急いで後を追いかけた。
実のところ男友達などいたためしの無かった阿含は、ヒル魔に対する接し方を目下模索中なのだった。力で捻じ伏せるのは当然却下、猫を被って欺くのも却下(そもそも猫被りはヒル魔の方が上手い)、そして今のように優しくするのも駄目らしい。じゃあどうしろってんだ、と悩む彼は、どうもしなくとも良いという答えを知らない。
駅構内に入った所で「で、どこ行くの?」と訊けば「恵比寿」と返ってきた。「へー」と相槌を打ち、定期の類を持っていない阿含は130円の切符を買う。
「つーかテメーも来んのか」
「だってほらコレ持ったまんまだし?」
「それくらい一人で持てる」
「うっせーなぶっちゃけヒマなんだよ。連れてけ」
「構わねえが、暴れんなよ?」
にこりともせずに言うヒル魔へ、阿含はうっすら笑って「はあーい」と頷いた。ヒル魔はさっさと改札を通り抜ける。機嫌が悪くなった様子は無い。どうやら、これくらいが丁度良いらしい。
阿含とヒル魔/2006.10.17.