ふ り ま わ さ れ る  ぼ く た ち

  「もう時間だから上がっていいぞ」と肩を叩かれてはじめて、エレキは自分が画面に見惚れていたことを自覚した。
  青く澄んだ空で、大きく眩しい光が弾けて、キラキラと雪のように降ってくる。それは店内で絶えず流れている映像のワンシーンだ。世音で働いているエレキは、もう何度も目にしたものであるはずなのだ。しかしそれでも、ふとした瞬間、その映像は彼の目を奪っていく。そのたびに彼は「何度見てもキレイだよなぁ」と思った後、仕事中に呆けているのはまずい、と気付く。今回も思考の流れは同じようだ。反省の意を込めて、彼は己の両頬を軽く叩いた。
  気を取り直したエレキが「上がる前にせめてコレ片付けとこう」とカウンターに並んでいる空のグラスに手を伸ばした瞬間、店の入り口から聞き覚えのある声がした。

「やっほーエレキーッ!おっつかれー!」

 軽く元気で能天気な声。エリカだ。また来たのかよ、と少し笑いながら、エレキは入り口のほうへ目をやる。彼女は鮮やかなサイドポニーを揺らしながら、小走りで駆け寄ってきた。そして当たり前のようにカウンター席へ座り「ジントニックちょーだい」とニコニコ笑いながら注文してくる。
 それはいい。なんら問題の無い行為だ。いつも通りの自然なやりとりだ。手早くジントニックを作り終えたエレキの眉間にできたシワの原因は、彼女ではない。
 原因はエリカの背後に佇む影。先程から鬼のような形相で、殺気どころか殺意すら孕んだ視線をよこしてくる男。エレキの実兄、シロウだ。

「……なんで兄貴まで来んだよ」

 思わずぼやくと、兄の眼光は鋭さを増した。周囲の空気がビリビリと震えている気さえするのに、エリカは全く気付かない。鈍い。鈍すぎる。「おいしー」と幸せそうにジントニックを飲む彼女を見て、エレキは盛大なため息を吐いた。兄貴もやっかいな女に惚れてくれたものである。

 

 誰がどう見ても判るほどに、シロウはエリカが好きだ。エリカがいればそれだけで彼は幸せを感じ、彼女の姿を視界に捉えればそれだけで自然と顔が綻ぶ。エリカに笑いかけられると未だに頬が紅潮して、まともに話せなくなったりと、実に判りやすい反応を示す。
 本当に判りやすい。しかし「あれで気付かん奴はアホやろ」というユーズ氏の発言を踏まえると、どうやらエリカはアホらしい。
 そう。誰がどう見ても判るはずなのに、エリカ本人は全く気付かないのだ。

 早く気付いてくれればいいのに、とエレキは思う。気付いて、そして兄の恋が成就すればいいと思うし、成就しなくて更に手酷くフラれてもいいと思っている。とにかくこの現状が、彼には苦痛なのだ。
 兄の前でエリカと少しでも仲良くしようものなら、今のように鋭い視線が飛んでくる。エリカから話しかけてきたにも関わらず、コレである。カンベンしてくれよ、と思うのも無理がない。

「ねえねえエレキってさ、今日は上がるの早いよね?」

 半分ほど空になったグラスを両手で持ち、カウンターに身を乗り出して、エリカが訊いてくる。その隣の席に座った兄は注文もせず、依然として弟を睨んでいる。いつにも増して怒っている兄から目を逸らし、エレキはエリカに向き直った。

「ああ。つーか今、上がり」

 制服のタイを緩めながら彼が言うと、兄のこめかみがひくり、と引きつった。だが顔を向き合わせた二人は気付くこともなく、話を続ける。

「じゃあさ、一緒にクラブ行こ!」

 ぱあっと破顔するエリカに「よっしゃオッケーソッコーで着替えてくる!」とワンブレスで答えそうになった己の口をエレキは左手で押さえた。今日は怒れる兄もいるのだという事を、一瞬とはいえ彼は忘れていた。そんな己を呪いつつ、おそるおそると彼は兄の顔色をうかがった。
 案の定、こちらを睨みつける鋭い兄の眼は、露骨に語っていた。来るな、と。

 これでは行くわけにもいかない。ふたりきりの時間を邪魔しようものなら、本当に殺されかねない。それにクラブへ男と女が二人で行くのなら、それは充分デートといえる代物だろう。少なくともシロウにとっては。そして今回のデート(仮)によって二人の仲が進展もしくは後退してくれれば、エレキとしても大助かりである。
 しかし、そんなエレキの心をグラグラ揺さぶる声は止まない。

「ねーいいでしょ一緒に行こ?人数は多いほうが楽しいし!麻布でいいハコ見つけたのよー!音サイコーだしフロア広いし!今日ならハウスで踊りほーだいよ!?」

 踊りほーだいという言葉と、兄貴(の恋愛)がシーソーの両端に乗ってがくんがくんと揺れている。脳内に浮かんだイメージ映像につられて頭をゆらゆらさせながら、エレキは必死で考えた。

 そういえば最近、忙しくて踊ってないな。とは思うものの、兄貴をこれ以上怒らせると後が怖い。とは思うものの、だんだん行きたくなってきた。エリカと一緒なら、フザけてワルツを踊って笑いを取るのも楽しいかもしれない。とは思うものの、そんなことをしたらその場で斬られること必至なのだが……

 

 ああでもないこうでもないと考えているうちに、彼の頭はショートを起こしかけた。普段から物事を深く考えないエレキの頭は、複数の事を同時に処理できないのだ。
 例えば、洗濯機を回している間に掃除をしようとすると、彼は掃除にばかり夢中になってしまう。手始めに掃除機をかけている途中、ふと目に付いた窓ガラスを磨き始めてしまう。そしてバイトの時間ギリギリまで網戸を洗っていたりする有様だ。(ちなみに洗濯物も放ったらかしだ)
 やたら磨きこまれた窓と、なぜか生乾きのまま洗濯機に入った洋服郡を目の当たりにしたデュエルが「お前、ひとり暮らしには向いてないんじゃねぇの」と言ったのは、つい最近のことだ。いちいちごもっともな気もするが、当の本人は「余計なお世話だ!」と憤慨していた。
 ……などという小話は置いておくにしても、今現在エレキはピンチを迎えている。このままでは年甲斐も無く知恵熱を出しかねない。

 

 もうだめだおれの頭には無理だ、と彼は悟った。しかし、ギブアップ宣言をしようとエレキが挙手すると同時に、エリカのケータイが鳴った。メロディはQQQ。すぐさま彼女はその細い手でケータイを取り出し、着信相手を確かめようともせずに電話へ出た。

「やっほーニクス?え、もう麻布に着いたの?」
「「……え?」」

 相変わらず軽いエリカの声に、兄弟は揃って疑問符を口にした。そして次に発した言葉も同じだった。

「「デートじゃなかったのか……」」

 その言葉自体は同じなのだが、両者のテンションには天と地ほどの差があった。

 ニクスと麻布で落ち合うという事は、デートでもなければふたりきりでもないという事だ。つまり自分が一緒に行っても問題ない!と気付いたエレキのテンションはうなぎのぼりだ。「よっしゃ!おれも行く!」と元気に宣言して、着替えるために大急ぎで奥へ引っ込んでしまった。
 一方、兄のほうはというと、浮かれていた自分が空しい為か、単純にふたりきりではないという事実が悲しい為か、とにかくテンションが低い。彼の肩はゆっくりと落ち、背骨は曲がり、ごとんと力ない音を立てて頭までもがテーブルに落ちた。

「ユーズとサイレンも一緒?……え、デュエルも来るの!?やったー久しぶりじゃん!……うん、こっちも急ぐわ!」

 楽しそうな彼女の声を聞きながら、とりあえず今夜は飲みまくろう、と彼は決心した。バーテンにスクリュードライバーを注文し、すぐに出てきたオレンジ色の酒をぐいっと一気にあおる。すると通話を終えたエリカが「おおッ!いい呑みっぷり!」と手を叩きながら笑う。
 そんな彼女を見て、無邪気なエリカはほんとうに可愛いな……と心地の良い敗北感に浸るシロウであった。



ふりまわされるぼくたち/エレキとシロ→エリ/ 2005.08.24.