残存

  かつて社長が座っていた椅子に、人間の姿を借りた化物が座っている。その手には新聞。バサバサとページを捲るスピードは恐ろしく速い。だが化物の眼球はほとんど動いていない。読んでいるのではなく、眺めているだけにしか見えない。そのくせ、誌面の情報はしっかりと頭に入れているらしいのだ。

 数日前、暇だった俺は新聞に載っていたクロスワードパズルを解こうとした。すると化物は、こちらを見もせずに答えを言ってきたのだ。疑わしく思った俺は、奴を無視してパズルに取り掛かった。そして空欄を埋め始めて二十分後に、奴の言葉は正解だったという事を知った。ちくしょう。やっぱり化物は化物だ。
 しかしふとした瞬間、そんな化物とあの人が重なる。共通点は、常に俺を見下して偉そうにふんぞり返っているという一点のみだ。その一転が、ピタリと寸分のズレも無く重なるのだ。そしてその度、俺は感傷に浸ってしまう。

 ち、と舌打ちをして、身を沈めていたソファから立ち上がる。コーヒーでも飲もうかと、戸棚を覗いてみた。が、置いてあるのは紅茶の缶ばかりだ。隅の方に緑茶の筒がひとつだけあったが、コーヒーは見当たらない。昔は常備していたのに。
 そういえば、もうこの部屋には、煙草の匂いもコーヒーの匂いも無い。開いた戸棚から、かろうじて紅茶の匂いが漂ってくるだけだ。

「なあ、おまえって紅茶派なのか?」
「女子高生探偵にはコーヒーより紅茶だろう」
「おまえは?」
「我が輩は紅茶も緑茶もコーヒーも飲まん」

 素っ気なく返され、安堵した。その椅子に座って新聞片手にコーヒーなんて飲まれたら、洒落にならない。これ以上思い出させてくれるな。
 化物はこちらに目も向けず、新聞をわきに除けて今度は週刊誌を広げ出した。ゴシップだらけの雑誌を、詰まらなさそうに眺めている。ギシ、と背凭れを軋ませるその姿を見て、俺はまた少しばかり感傷に浸った。

 あの人の墓は無い。かつて俺達がいたこの場所も、すっかり変わってしまった。染み付いていたはずの匂いも、もう無い。昔を思い出すような名残はどんどんと薄れ、消えていく。今はもう、ほんの僅かな残滓があるのみだ。



残存/吾代とネウロと/2006.06.25.
死んだ人の事を思い出す回数が減っていくって事は、
その人の事を忘れていくって事じゃなくて、
その人が思い出になっていくって事であり
その人が自分の一部になっていくって事であり
つまり自分の中で生き続けていくって事なんだと。
BGM/Nujabes「Feather」