どこを見ているの?隣に私がいるのに

 ヤコは魔人の本性を知る人間は自分だけだと言う事実に、優越感を抱くようになっていた。そもそも本性以前に、魔人の事をネウロという名前で呼んでいる存在が自分だけなのだ。魔人にとってヤコという存在は、間違いなく特別であると言えよう。自分だけが特別。その事実はヤコを有頂天にした。子供っぽい優越感ではあるが、それは日々虐げられているヤコのプライドを保つ、大事な感情だった。
 しかし現在、魔人の関心を惹いているのはヤコではなかった。希有な能力を持つ女、美しくも哀しい希代の歌姫だった。


 「アヤのCDを持ってこい」という、いつもに比べれば果てしなく軽いであろう命令に、ヤコは動きを止めた。一瞬遅れてスプーンの上のぶどうゼリーが、ふるん、と揺れる。美和子さんにお土産として貰った果肉入りのゼリーは、とても滑らかな舌触りで、ヤコのお気に入りだ。そのゼリーがふるふると、ごく僅かにだが揺れている。
 ヤコはソファに座ったまま「なんで?」と少しばかり反抗的な声で訊いた。机に座っている魔人は、「持っているのだろう?」と返す。「そうじゃなくて、なんで、」とヤコはもう一度訊いたけれども、曖昧な言葉だけでは、魔人は人間の心を察してくれない。ヤコはゼリーを口に入れて飲み込んでから、言い直した。
 「なんであんたが音楽なんて聞きたがるの」(なんであんたが彼女のことを気にするの)と、先程より具体的な言葉でヤコは訊いた。銀のスプーンをぎゅっと握り締め、ぶっきらぼうな声で。
 魔人はようやくヤコが苛立っている事に気付いたが、気には留めなかった。彼が今興味を抱いているのは、人間の脳を揺さぶる歌なのだ。それに比べたら、思春期の少女の苛立ちや嫉妬やヒステリーなどは些細な事だ。

 「いいから持ってこい。今すぐにだ」と魔人はぞんざいに催促した。ヤコはまた反抗的に「スタジオで生歌聞いたじゃん」と言った。すると魔人はいつものように理不尽な暴力を振るおうとはせず「他の曲も聴いてみたい」と言って薄く笑った。
 あの女の事をもっと知りたいと言っているように聞こえて、ヤコはいよいよ泣きたくなった。どうして私じゃないのだろう。どうしてあのひとなのだろう。そんな事を考えてしまう自分が嫌で、涙が出そうになる。いっそこの場で派手に泣いてみようかという事すら考えてしまう。しかしいくら泣いたところで、魔人の気が惹けるはずも無い。それどころか「そんな脆弱な物はいらん」と言われ捨てられてしまう恐れすらある。それが判っているからこそ、ヤコは涙を押し戻した。顔を下に向けて、魔人を視界から消して、涙腺が冷えるのをじっと待つ。

 だが、数瞬もしないうちに魔人はヤコの名を呼び「早く行け」と再び催促した。ヤコは下を向いたまま「わかったわよ!」と叫び、ソファから立ち上がる。そして事務所のドアを開け、力一杯叩きつけるように閉めて出て行った。テーブルの上には食べかけのゼリーが置かれたままだ。魔人は目を瞬かせ「珍しい事もあるものだな」と呟いた。



どこを見ているの?隣に私がいるのに/ヤコ→ネウ/2006.08.14.
お題配布元/crybaby Alice(http://dahlia.moo.jp/alice/)
BGM/Fat Jon「how you feel」
2〜3巻あたりの時期。
疎外感抱いちゃってるヤコちゃんと、人間に興味を示し始めたネウロ。
まだ色々と噛み合ってなくてすれ違いが多そうな二人。