ギリギリで自分を保っている自由意志までもが揺らぐ瞬間がある。それはHALが画面の中でニタリと口角をあげて目を細めて(HALの笑い方はいつもねちっこくて気持ち悪い)、君は実に頼もしいだとか見事なものだなとか、君は本当にいいこだな、とかいうことを言う時だ。こんなに手放しで褒めてもらった事があっただろうか?いいこだなんて言われると、脳味噌がどろどろに溶けて消えてしまいそうになる。父さんも母さんもこんなこと言ってくれなかった。(少なくとも俺は覚えてない。俺が覚えてるのは、二人の猫背な後姿と虚数空間での姿とそして汚い死体になった姿だけ)
ずっと欲しかったのは、こんな言葉だったのかもしれない。黒いコーヒーに角砂糖を山ほど入れてガチャガチャかき混ぜて、溶けなくなってもまだ入れ続けるような、甘くて甘くて胸焼けしそうなくらいに甘い言葉。
「ねえ、もっと言って、もっと褒めて、」
口に出して言ってしまうと、HALは画面の中でぱちりと瞬きをした。それを見てやっと、俺は我に還る。でも自制が利くのは深いところにある意思だけで、表に出ている意識はまだ甘ったるい幻想にハマったままだ。HALはクツクツと笑って「まったく、しょうのない子供だな。だが、素直な子は好きだよ、とてもね」と、もったいぶった口調でまた角砂糖を投げ入れる。こんなに甘ったるくて砂糖が底に溜まってザラザラするコーヒーなんて、笛吹さんだって飲まないよ。
でも桂木なら飲んでしまうかもしれない。あいつは何でもかんでも片っ端から食べて、おいしいおいしいと幸せそうに笑うから。
きっと桂木は、甘い言葉をたくさん貰って育ったんだろう。めいっぱい褒められて、たまに叱られて。誕生日には大きなケーキにろうそくを立てて、あったかいごちそうを作ってもらって。おいしいごはんをたくさん食べて。やこ、やこ、ってたくさん呼んでもらって。父親は殺されたらしいけど、そんなことは問題じゃない。桂木には、父親とのきれいであったかい思い出がたくさんある。じゃなきゃあんなに真っ直ぐきれいなまんまではいられない。(俺にはきれいなものなんてない。昔も今も、なにもない)
HALは画面の中で笑っている。それは明らかに俺を見下して馬鹿にしきった笑い方だった。ちくしょう調子に乗りやがって。今すぐウイルスをぶちこんで壊してやりたくなる。
それでも俺はガキみたいにニコニコ笑って、砂糖みたいな言葉を欲しがってる。どろどろに溶かされてかき混ぜられて、わけがわからなくなる。もうだめだ頭がぐらぐらする。意識が遠のく。甘いものが欲しくなる。ねえ、ねえHAL、もっとちょうだい。お願いだよ、もっともっともっと――。
溶けない/匪口とHAL(と弥子)/2006.12.24.
大丈夫。
もうすぐヤコちゃんが掬い上げて、ネウロが全部壊してくれるから。
BGM/Nujabes「Haiku(interlude)」