丁寧に磨かれた重厚な木製のカウンターには、スチールパイプで作られた脚の長いイスが五つ並べられていた(こんなところもミスマッチだ。オーナーか誰かの趣味なのかな)。そのちょうど真ん中のイスに彼は座っている。
空いているイスは無いので彼の近くに立って「こっちだって好きで残業なんかしてたわけじゃないよ」と言ってみた(話が通じるといいなあと思いながら)。
すると彼は挨拶も無しに思いっきり眉をしかめて席を立ち、俺のネクタイを、ぐい、と引っぱった。不意打ちだった。緩めていたネクタイが締まり、首までもが絞められる。少し苦しい。ところが反射的に彼の手首を掴むと、あっさりと拘束は解かれた。ああ、まったく、なんなんだ。酔っぱらいのすることは意味が判らない。
薄暗い照明のせいで、顔色もよく判らない。でも酔っぱらっているのは確実だから、明るい場所で見たらきっと真っ赤だろう。そして晒された彼の上半身は、日本のホラー映画に出れるくらい青白く見える。まったく、こんなの見せられたって、誰も喜ばないだろうに。
「アーサー、聞きたいことは山程あるけど、とりあえずなんで脱いでるのか教えてくれるかい」
「ああ?ジョーンズがスーツ着てみたいっつうから貸したんだよ文句あっか」
彼はワンブレスで言い切ると、手に持ったロックグラスの中身を一気に煽った(ビールですらない!)。「ジョーンズって誰」と問えば、彼は顎でフロアの中央を指す。目をやれば確かに、高校生くらいのアフリカ系の少年が、Tシャツの上にジャケットを羽織って、おまけにネクタイまでつけて踊っていた。でも、Yシャツまでは着てないぞ。
「シャツはどうしたんだい」
「暑いから脱いだ」
「いつもはきっちり着込んでるくせに、なんだってそんな簡単に脱ぐんだよ!?」
「だから、暑いから脱いだんだっつの」
だめだ!案の定、話が通じない。話が進まない。これじゃ彼を説得するのは無理そうだ。
会話は諦めて、シャツはどこだろうかと彼が座っていた席を覗き込むと、隣に座っていたスペイン系の女性が「はい、これ」とシャツを差し出してきた。すぐそこにあったらしい。それをありがたく受け取ってイギリスに押し付けると、彼は不機嫌そうな顔で俺を見上げて「なんだよ」と言った。なんだよってなんだよ。これはもう強制的にでもシャツを着せるべきだろうか。うん、その方が早い。
仕方ないのでシャツの袖口から手を入れて、そのまま彼の手首を掴み、ぐい、とシャツを引き上げる。意外と簡単に片腕を通せた。おかしいな、もっと抵抗されると思っていたのに。
不思議に思って顔を上げると、どこかぼうっとした表情のイギリスと目が合った。さっきまでは眉間にシワを寄せて、不機嫌な声を上げていたのに。今はもう喋る気配も動く気配もない。ということは、やっぱりこのシャツは俺が着せるしかないのか。気は進まないものの、もう片方の腕も通しボタンも閉める(今日の俺って、すごく頑張ってる気がする)。
最後のボタンまで閉め終え、作業自体は難なく終了した。
ところが顔を上げようとしたら、彼の両手が俺の頭をがっちりと掴んだ。今度はなんだよ。もう疲れたよ。手を張り払う気力すら失せたので動かずにいると、突然、右のこめかみにキスをされた。それから彼はやけに優しい声で「よくできました」と言った。あれ?なんだろう、なんだか変な感じだ。
たしか、昔にもこうやって褒められた事があった。どれくらい昔だったかは覚えていないけれど、俺が凄く小さかった頃だ。たしか、こうやって褒められて、頭を撫でられた事があった。
どんなときだっけ。初めて銃を撃ったときか、紅茶を入れたときか、泣かないでずっと待っていたときか、絵本を読み終えたときか、ひとりで着替えたときか、それよりもっと前か……いや、ことあるごとに褒められていたような気もする。しょっちゅう頭を撫でられて、その度に小さな俺は喜んでいたんだ。
でも今はもう小さい子供じゃなくて、大人だ。だからこんなふうにされても嬉しくなんかない。はっきり言って、これはまるっきり子供扱いされてるだけじゃないか。それに、しょせん酔っぱらいのする事だ。本気になんかするもんか。
「そうか、もうお前も子供じゃないんだな……ついこの間までは、ひとりでパジャマも着れなかったのに」
「はあ?」
あきれた。こっちが黙っているからって、急に何を言い出すんだ。あ、そうか、これも酒のせいか。きっとアルコールで脳味噌がどろどろに溶けてるんだな。うん、そうに違いない。
かくして酒に飲まれたイギリスは、傍にいる女の子に「えー、なにそれ?」と訊かれて、べらべら喋り出した。
「こいつはちっこい頃にな、シャツのボタンをしょっちゅうかけ違えてたんだ。しかもな、こう、上から順にかけていって、最後になってズレてるのに気付くと、足りない足りない!ってギャン泣きして怒るし。あーもうお前は泣くのか怒るのかどっちかにしろよなあ?」
「そんっな昔のこと覚えてないよ!」
聞くに堪えかねて怒鳴ったら、周りにいる人達が一斉に笑い出した。なんだこれ。ものすごく恥ずかしいぞ。
でもイギリスだけは笑っていない。彼は少し呆れたような声で「あ?覚えてねえのか?」と言ってまた俺の頭を両手で撫でる。更に「シャツだけじゃねえぞ。お前、棚の上に手が届かないときも、」と続けようとした。冗談じゃない。これ以上暴露されてたまるか!
俺は未だ頭を掴んでいた彼の両手を振り払って、「いいかげんにしてくれ!なんだって君は昔の話ばっかりするんだよ!」と殺気を込めた声で怒鳴った。すると周りにいる人達は、しん、と静まり返ってくれた。
ところが、今度はイギリスが声を立てて笑い出した。
「よし、わかった。今日は俺がおごってやる!」
……だめだ。絶望的なまでに話が通じてない。あ、そうだ、酔っぱらいには何を言っても無駄なんだった(わかってる、わかってたはずだ)。
イギリスは、もはや言葉も無く脱力するだけの俺の腕を引いて、カウンターに身を乗り出した。その横顔は、やけに穏やかな笑顔だ。彼は手慣れた様子でビールを二杯注文し、財布からコインを取り出した。どうやら本気でおごるつもりらしい。
正直なところ、酒はあまり好きじゃない。だって別に美味しくないし、そのくせ高い。高い金を払って酒を飲むくらいなら、安くて美味しいコークを飲んだ方がずっと良い。
でも彼の笑顔が昔みたいに穏やかなので、今夜は飲んでみようかなと思った。
酔っぱらいには敵わない/米と英/2007.11.03.