【束の間の喜び】 1/2

 イギリスの景気は慢性的に悪い。先の大戦以降、ずっと悪い。悪いくせに意地を張るから、一向に良くならない。
 文句だったらいくらでも付けるくせに、弱音は滅多に吐かない(吐くとしても、冗談みたいな口調で吐く)。それが彼の強さであり、性分だ(ゴーストタウンと化したオフィス街でも、彼は背筋を伸ばしてまっすぐ立っていた)。

 そんなイギリスが、珍しく本当に疲れた顔でため息を吐くものだから、俺は若干心配になって、ソファに凭せている背中を浮かせた。それから「疲れてるのかい」と聞いてみた。
 すると彼は紅茶のカップへ伸ばしかけた手を引っ込め、膝の上に肘を置き、両手を軽く組んだ。そして視線をテーブルの上に固定して、俺の名を呼んだ。なに、と聞き返すと、彼は皮肉げに笑いながら「女ってのは怖いな」と言った。

 聞いてしまった瞬間に後悔した。なぜなら彼の女性遍歴は最悪そのものだからだ。不誠実さでいったらフランス以下だからだ。特に、海賊行為をしていた時代の話なんて、聞いてるだけで身の毛もよだつほどだ(話していたフランスとスペインも青い顔をしていた。ちなみに本人からその手の話を聞いたことなんて無い)。
 まあ最近は景気も悪いし、それを回復するための改革に忙しいせいか、女性関係の話は聞かなくなったのだけれど……そうか、俺の知らないところでは未だに色々とやらかしていたってわけか。

「昨日の晩、一緒に食事するだけのはずだったんだが、」
 イギリスは勝手に話を続けた。いやだな。聞きたくない。でもこの手の話を、聞きたくないから、という理由で遮るのは子供っぽい気がする。
「ちょっとした口論に……いや、あれは説教だったな」
 いやに喉が渇いて、自分用のカップに手を伸ばしかけたが、やめた。手が震えていることに気付いたからだ。
「へ、へえ、君に説教するひと、しかも女性なんて、珍しいな」
 俺は祈るような気持ちで言葉を紡いだ。頼むから、口論の末に殴っちまった、なんて言わないでくれよ。そんなことを言われたら、全力で君を殴りつけなければならない。
「確かに、珍しいな。つうか彼女は女だから、紳士的である必要なんてこれっぽっちもねえんだよな……だから、俺に対してあんなことも言えるんだ」
「あんなことって?」
「優柔不断だとか自信過剰だとか危機感が足りないとか僻み根性もはなはだしいとか、あなたはそれでも男か、とか」

 彼はそこで言葉を切って、曲げていた背中を伸ばし、ソファの背凭れに沈めた。天井を仰いだ目元は手の甲で覆われた。そのせいで表情が見えない(口元は微笑んでいるけれど、その笑みが何を意味するのか判らない)。ただ、疲れきった声がこう言った。
「俺は、なんであのひとを選んだんだろうな。でも俺をどうにかできるのは、あのひとだけだし……」

 それは意外な言葉だった。
 なんてことだ!彼が、イギリスが、たったひとりの女性のために頭を悩ませていただなんて!真剣に、そして真摯に!しかも別れる気なんてさらさら無いみたいだ!
 どうしよう、心臓がどきどきしてきた(なんでだろう)。息が詰まって、頭がぼうっとする(酸素が足りない!)。ぼうっとした頭に、じわじわと嬉しさが広がっていく……嬉しい?そうだ、嬉しいんだ!まるで自分のことのように、もしかしたらそれ以上に!
 わかった途端、それまでの憂鬱な気分は一気に吹き飛んだ。