2. 僅かな意識

 でこぼこに歪んだ、年季の入っていそうな鉄製のバケツ(そのくせ錆び付いてはいない。変なの)を持って外に出ると、辺りは薄暗かった。腕時計を確認すれば、時刻は午前7時。そろそろ秋も近いから、まだ太陽が昇る時間じゃないのだろう。と思った矢先、空を覆っている暗い雲に気付いた。こんなに分厚い雲があったら、太陽が昇っていてもいなくても大差ないな。
 でこぼこだけれど歩き辛くはない敷石の上を歩いて家の裏に回ると、すごーく広い庭がある。入ってすぐの所には得体の知れないハーブ(らしきもの)が生えていて、その向こうには小さな畑があって、更に向こうにはよく判らない低木がやたらと密集していて、そこから青いりんごを実らせる木々が森を作っていて、その果てには草原があったりする広い庭だ。広すぎて「庭」と呼べる代物ではないと思う。でも本人はごく普通に「裏庭」と言っていたりする。

 裏庭には、表庭にあるような花は無い。ほとんどが食べられるもの、ようするに実用的なものばかりが生えている。バラやら何やらが咲きまくっている表庭とは大違いだ(あっちは猫を被っているように見えるから、あまり好きじゃない)。考えながら見渡して、ああ、ここは嫌いじゃないな、と思った矢先にまたしても気付いた。
「ラズベリーって、どこにあるんだ?」
 裏庭に入るのは初めてではない。けれど、どこに何があるのかまでは把握してない(そういえばひとりで入るのは初めてのような気がする)。でもまあ、ここで悩んでいたって仕方ない。悩むよりはまず行動だ。

 ところが、それっぽい低木の密集地帯へ近付いてしゃがんだ瞬間、背後で物音がした。誰かの足音だ。反射的に立ち上がって振り返ると、ひとりの少年が敷石の上を歩いていた。
 その少年は裏庭に入って数歩の所で俺に気付き、足を止めた。そして凄く不満そうなボーイソプラノでこう言った。
「えー、なんでアメリカの野郎がいるですか?」
 うん、相変わらず失礼な子だ。やっぱりイギリスは躾が下手だな。

 イギリスそっくりの(何度見てもそっくりすぎてちょっと気味が悪い)顔を不満そうに歪ませたシーランドは、駆け足でこちらへ寄ってきた。いつものセーラー服の上に羽織ったダッフルコートと、首にしっかりと巻かれたマフラーが風に揺れて邪魔そうだし、なにより暑そうだ(まだ厚めのパーカーだけで充分な季節なのに)。けれど本人は全く気にならないらしい。
 彼は俺の目の前で足を止め、両手を腰に当てて俺を睨みつけた。太くて薄い眉は吊り上がっていて、口はへの字で、頬は膨らんでいる。何がそんなに不満なんだろう。
「ひとんちの裏庭でなにやってるですか?ここは勝手に入っちゃいけないのですよ!」
「勝手にって、君だって勝手に入ってるじゃないか」
「シー君はここの所有者であるイギリスの野郎に出入りを許可されたです!いわばフリーパスなのですよ!」
 そう叫ぶと、彼は短い人差し指を俺の顎に突きつけた。物凄い拒絶のされようだ。一体なんなんだ。少しいらいらしてきたぞ(でも相手は子供だ子供なんだ)。
「黙ってないで何か言うですよ!それとも何にも言えないですか!」
「俺はイギリスに頼まれて、ラズベリーを摘みに来たんだぞ」
 空のバケツを軽く持ち上げて言うと、突きつけられていた指が下がった。そして彼は不満そうながらも「しょうがねーですね。じゃあ、さっさと摘みに行くですよ!」と言って走り出した。ボタンのかかっていないコートがばさばさと揺れる。首の後ろで結ばれたマフラーの両端も、忙しなく揺れている。

 歩いて付いて行ったら「なにサボってるですか!走るですよ!」と言われた。彼はりんごの木の下に立ち、人差し指を奥に向けて「まだ摘んでないラズベリーは、ずーっとあっちにあるです!」とも言った。そしてまた走り出す。その足取りに迷いは無い。
 俺は早足で追いかけた。

僅かな意識/2008.11.23.