5. 立ち会い人

 シーランドが泣いている。怒りと悔しさのあまり泣いている。泣きながら「あれだけ話したのにひとつも信じてなかったってどういうことですか子供だからって舐めんなこのアメ公が」という意味の言葉を、壊滅的な発音で叫んでいる。握り締められた右手の中にはラズベリーが入っているらしく、指の隙間から赤い液体が滲んで垂れて、ぽたりぽたりと地面へ落ちていく。未だ昇らない朝陽のせいで、その液体は血液のようにも見える。
 感情の赴くままに泣き、叫び、当り散らす。それらは俺が子供の頃には出来なかった事だ(今思えばアメリカにも出来なかった事なのだろう。当時のあいつは相当に我慢していたはずだ)。平和な時代になったな、とだけ思う。

 地面にへたり込んで顔を俯けてしまったアメリカは、見るからに困惑している。
 そもそもアメリカは、子供という生き物に対して過保護だ。子供はか弱いのだから大人が守って然るべき存在だ、という意識が強すぎるのだ。しかし今現在、か弱いはずの存在は激しい怒りを撒き散らして号泣している。
 その困惑は、俺にも覚えがある。目の前の子供がなぜ泣いているのか、なぜ怒っているのか、なにを叫び訴えているのか、その全てが判らない。いっそのこと自分も泣いてしまいたくなる。そういう感情を、俺も味わったものだ。
 ならばいっそ言ってやろうか。今のお前の困惑は、かつて俺がお前に対して抱いていたものと同じだと。言ってやったら、どんな顔をするだろうか。考えるだけで笑いが込み上げてくるが、今すぐ笑うわけにもいかない。

 俺はゆっくりと立ち上がり、ふたりの間に割り込んだ。そしてその場でしゃがみアメリカの顔を覗き込むと、シーランドの叫び声が止んだ。そのかわり不満そうな唸り声を上げながら、俺の肩を思い切り掴んで爪を立て始めた。細い10本の指に付いた薄い爪が肩に食い込んで、結構痛い(また力が強くなったようだ)。手の中で潰れたラズベリーがセーターを汚しているに違いないが、今はまだ無視をする(後で着替え直して洗濯だ。面倒だな)。
 殊更に優しい声でアメリカの名を呼び、その肩を軽く叩く。空色の瞳は、弾かれたようにこちらを見上げた。反射すべき光を持たないレンズは、期待に満ちた目を遮ることなくそのまま見せた。だが悪いな。お前が期待しているような助け舟を出す気なんてさらさら無い。
「少し、昔話をしてもいいか」
 声の調子を変えずにそう言うと、アメリカは黙ったままゆっくりと瞬きをした。1回、2回、3回も目を瞬いて、ようやく俺の言葉の意味が判ったらしい。期待に満ちていた目は、急速に冷えて失望の色に染まった。アメリカは気の抜けた声で「いやに決まってるだろ」と言ってため息を吐いた(そうか、そりゃそうだろう)。

 小さく一息を吐いてから、首だけでシーランドを振り返る。すると、肩を掴んでいた小さな手の力が緩んだ(俺の動きが予想外だったのだろう)。今度は体ごと向き直る。小さな手は多少の抵抗を見せたが、結局離れて行き場を失った。
 泣き腫らした目は一瞬だけ驚きに見開かれてから、すぐに怒りを取り戻す。両手は再び拳になる(殴られたらたぶん痛い)。その両拳が振り上げられるより早く、前腕部を掴んで押さえ込む。両腕を無理矢理伸ばして脇の縫い目に沿わせると、シーランドは噛み付きそうな目で俺を睨めつけた。しかし相変わらず、言葉は出てこない。唸り声と悔し涙が搾り出されるのみだ。今の感情を表す言葉が判らないのだろう。
 俺はあくまでも優しい声で(腕を押さえ付ける力は緩めず)、なだめるように名前を呼んでみる。当然、素直な返事などない。まあいいか。
「昔話をしてやろうか」
 声の調子を変えずにそう言うと、シーランドは首を左右に振り、身を捩って逃れようとした。だが「そうだな、アメリカがお前より小さかった頃の話をしよう」と続けたら、抵抗がぴたりと止んだ。険しかった表情も、瞬く間に解れる。
「アメリカが小さかったころの話ですか?」
 やっと会話を成した声は、散々泣き叫んだせいでひび割れていた。俺はその声に頷き返し、腕を押さえつける力を緩めた。するとシーランドはあっという間に俺の手を振り払い、その場にしゃがんでこちらを見上げた(そういえばこいつは、目線を合わせるためにしゃがまれるのが嫌いだった)。涙の後が色濃く残る目には、あからさまな好奇心が宿っている。
「だったら聞きたいです」
 俺は背後から聞こえる戸惑いの声を無視して、昔話を始めることにした。

立ち会い人/2009.01.11.